つらい別れを乗り越えてまた一つ成長する。
コンニチハ。リトマです。
先日、「私の頭の中の消しゴム」という映画を見ました。
アルツハイマーの彼女から記憶が消えていく。
切ない「別れ」に涙をこらえるのに必死の二時間になりました。
本日はこの映画に沿って、「恋愛と別れ、成長」についてお話したいと思います。
私の頭の中の消しゴム
ネタバレ注意
日本で一番、興行収入の多い韓国映画と言われているこの映画。
日本での初めの公開は2005年で、韓国の大人気スター的な俳優が登場します。
内容を少し説明すると、
建設会社の令嬢である主人公スジンと、その会社の工事現場で働く現場監督チョルス。育った環境が全く違う二人ですが、次第に恋に落ちていきます。境遇の差を乗り越えて夫婦となった二人は、しばらく幸せな生活を送りますが、そんな日常に思いもよらない悲劇が降りかかるのです。自分に異変を感じてスジンは病院へ、そして受けた診断は「若年性アルツハイマー」。記憶をどんどん失くしていき、チョルスのことさえも忘れるスジン。そんな彼女を最後まで愛し続けるチョルス。記憶の喪失によって別れを迎える二人の、純愛ラブストーリーです。
もうこの文章を書いているだけで泣きそうなんですが、そんな私の涙はおいといて。
皆さんはこのような恋愛をしたことはありますでしょうか?
この「別れ」の特殊さを考えると、ほとんどの場合、答えはNOだと思います。
しかし、「純愛」の後に「別れ」を経験したことがある、という方は一定数いるでしょう。
恋愛に限らず、「別れ」とは辛いものです。
転校して仲いい子と離れるような小さい別れから、親との死別のような大きな別れまで、程度は違えど「別れ=もう会えなくなる」というのは辛いもの。
今まであっていた、共に時間を過ごしてきた人と、もう言葉を交わすことはなくなる。同じような関係ではいられなくなる。
しかし考えてみてください。
このSNSやインターネットが発達した世の中、今や「別れ」というものはそうそう訪れるものではありません。
一昔前でしたら、小学生で転校した子と連絡を取る手段なんて、ありませんでした。
しかし、今であれば遠くにいても繋がっていられます。
卒業して離れ離れになった友達、留学先で知り合った友人たち。
一生連絡が取れないかというと、そうではありません。
通信技術の発展は、「別れ」を大きく減らしました。
今となっては、「死別」ぐらいしか「別れ」はない。
そう思えるほどに別れはマイナーになりました。
さて、では本当に死別のみが「別れ」なのでしょうか。
今までの関係ではいられなくなる。今までのように接する・喋ることができなくなる。
そんな体験は「死別」でしかできないのか。
いえ、そんなことはありません。
私達の日常生活で「別れ」が頻繁に見られるものが一つ有ります。
そうです、それが恋愛です。
もちろん、この映画「私の頭の中の消しゴム」のように、恋人が「死別」によって「別れ」になるというケースも稀に有りますが、それは究極系です。
そうでなくても、恋人と別れる(付き合っている状態から他人に戻る)というのは、一種の「別れ」です。
私達が何気なくそう呼んでいる、「え、彼氏と別れたん?」の「別れる」とは、「恋人として今まで接していた人間とバイバイする」という意味での「別れ」というわけです。
別れることで今までの「彼女・彼氏の関係」として接することはできない。
例えそれで友人関係戻ったとしても、いままでの「彼・彼女」はどこか遠くの学校へ転校してしまう訳です。
別れが生む成長
「別れ」は「成長」を生む。
これは「別れ」を経験したことがある皆さんなら直感的に解ると思います。
どう成長するのかを、言葉で説明するのも難しいのですが、敢えて言葉にするなら「諸行無常を受け入れる」といってところでしょうか。
「別れ」は必ず訪れるもの。避けては通れないもの。
子供の頃にあれほどまで悲しかった「転校」は、
「別れ」を繰り返して大人になったあなたからすれば、小さいことに映るかも知れません。
人は年を取るにつれて、別れを受け入れれるように思います。
小さい頃の大きかった「別れ」が、今になると小さく映る。
このことがそれを証明しているように思います。
「死」に近づくに連れて「諸行無常」を受け入れ、脳が「死」の準備をするのでしょうか。
なんにせよ、「別れ」はこの成長を加速させる。
そういった別れを体験できるのが「恋愛」なわけです。
恋愛して別れを経験し、自分を成長させる。
「恋愛すること」にはそういう意味もあるのではないでしょうか。
ご精読ありがとうございました。